ものすごくゆっくりと、でも確実に
2020.04.20

「別宅」であるこっちのブログは、もっとカジュアルに気軽に更新していくのを眼目にしてたはずが、やっぱり「まとまった食べ応えのあるエントリ」を目指してしまって更新頻度が低くなってしまう。今回は、先日Twitterで経験したことをインスピレーション源として即興的に、リバタリアニズムの説明の一端とすべく書いてみる。「本宅」である『ものすごく易しくてありえないほどくどい政治学入門』と併せてこのブログをお読みいただいてると自然とかつノリ良くリバタリアニズムの概要が見えてくるはずだ。



Twitterである人物と、ひょんなことから、大枠「リバタリアニズムと社会民主主義の差」についてちょっとした会話を交わしたのだが、両者とも軽々と会話を切り上げられるような人間ではなかったため、私のほうから続きはお断り申し上げた。そうした会話(場合によっては白熱する議論)から有益なことが発生することももちろんあるのだが、私はそういうことをTwitterでやりたい/やれるとは思っていない。私にとってTwitterの140字制限というのは、長い一文を書くのにすら不自由な仕様なのだ。



さて、そんな前置きあって、と。
多分に直覚的なリバタリアンから社民保守派となったと謂うその人物が、社会民主主義的な当面の理想として挙げる社会像は、「若者に希望を持って明日を考えさせ、高齢者に安心をもって明日を思い煩わせない政治」とまとめられるものだ、ということだった。それにはリバタリアンだって(血や涙があれば)別段反対はしないのだが、ここにはリバタリアンが全方向からブーイングを受けがちな、あるいちイシュー(そして包括的イシュー)が多分に含まれているので、私のブログ書きモチヴェイションに火が点いた。
私はこの人物を尊敬・尊重しているし、その確かな政治意識に共感・信頼を寄せてもいる。だから、以下の論は彼への反論どころか批判ですらない。ここではリベラリストやコミュニタリアンに大枠で共通して見られる「善き政治、善き社会、善き国民/住民」型の姿勢が出くわしがちな「落とし穴」を語るためのインスピレーション源/叩き台として使わせてもらうに過ぎない。



若者が希望を持って明日を考えるのは
・政治・社会によってそれが保障されて初めてできることか?
・政治・社会は、自分(全体)のために他者(若者)にそれを保障してあげるべきか?
・希望を持って明日を考える若者とそうでない若者がいる時、政治・社会はどちらに手厚い保障/援助を行うべきなのか?

極端な論立てになっているが、「原論」を考える際には極端化は有効かつ最も手っ取り早い方法である。
リバタリアンの多くは、テンポラルな現実問題への端的な解決のためにリバタリアニズムを採るのではなく、何百年という未来のタイム・スパンを見据えてこうした原論からスタートしている(もちろんリベラリスト、コミュニタリアンがそうでないわけではないが)。

リバタリアンは
・若者が希望を持って明日を考えるのもその人の自由、そうしないのもその人の自由
と考える
・政治・社会はそれを保障したい/保障できるならそれをするのも自由、そうしないのも自由
と考える
・希望を持って明日を考える若者とそうでない若者がいる時、政治・社会は何を以て手厚い保障/援助を行うべき対象を選別するのか
と考える
ということは、逆から言えば
・希望を持って明日を考えない若者にもまた、そうしない自由がある
・希望を持って明日を考えない若者が、政治・社会に、様々な形の希望と未来の保障を求めたら、それはやらずぼったくり的なクレーマー型の要望/要請/請求となる可能性がある
・希望を持って明日を考える若者とそうでない若者の選別判断基準があるとしたら、若者は自分の希望と未来の形を、政治・社会に合わせて持つと得をし、そうしない者は損をする
・希望を持って明日を考える若者とそうでない若者の選別判断基準があるとしたら、政治・社会は、「これこれがあるべき若者の希望と未来の形、そしてそれ以外の希望と未来の形を持つ若者に関してはわれわれは保障/援助を行わない」と言うことができ、それはたやすくパターナリズム/ファシズムに流れ得る
・希望を持って明日を考える若者が、そうでない若者からの税金によって独占的に希望と未来を保障されるのなら、そうでない若者はやらずぼったくられの被害者となり、公平性/公正性もなくなり、それ以前にまずぼったくられにより貧乏になり「不自由」を被る

ここにこそ、リベラリスト、コミュニタリアンに対してのリバタリアンの反発・対立の最大の軸がある。リバタリアンは常に、ひとりひとり個人個人の自由と幸福を考えることをその「自由主義」の骨子とするから、大多数の人の自由と幸福のために少数の人の自由と幸福が抑制・制限・詐取・侵害されることに最後まで強く反発し続けるのだ。



これに関したトピックは、「功利主義」「最大多数の最大幸福」「消極的自由と積極的自由」「自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン」の論議として幅広くある。それらをすべて読んでいくなら何年も何十年もがかかるだろうが、リベラル側コミュニタリアン側の「デフォルトに『善いもの』とされる政治の形」をリバタリアン視点から批判的に見ていくなら、あなたは初歩の段階から「何がそんなに問題なの?」「理論的なハナシであって現実的なハナシじゃないんじゃないの?」という無邪気・無頓着からずっと奥深くに進んでいけるだろう。たとえリバタリアンでなくとも。たとえリバタリアンが嫌いでも。



尚、「高齢者に安心をもって明日を思い煩わせない政治」の部分もまた、リバタリアンの殊に「社会保障制度と収奪」観に強く関わるイシューなのだが、それはまた別途語ろう。ただ、素早く予告しておけば、それは基本的に「保険料納付あれば福祉リターンあり、保険料納付義務なければ福祉リターン義務なし」で済むはずの話であり、『ものすごく易しくて』の「生活保護」「税制」のカテゴリーを読んでもらえば、私がそこを軽視してないことも感得してもらえよう。



 

人気芸人マイケル・サンデルによって一躍有名になったアーシュラ・K・ル・グィンの短篇「オメラスから歩み去る人々」は、功利主義や「最大多数の最大幸福」の思わず知らずの陥穽について考えるための良質のサイコミス/寓話である。
私のようなSF読者たちは、あの流行が起きるずっと以前から、長編『所有せざる人々』と並んでこの短篇を厳しくも心優しいアナーキスト:ル・グィンの真骨頂として読んでいる。
それは牧歌的リべラリズム/コミュニタリアニズムの夢想を夢想として打ち砕くだけのシヴィアさを持ち、より厳しい自律的精神による真のアナーキスティック社会の建立がいかに困難かを苦くシリアスに描く傑作だ。
「政治」の学習が小学生の算数の勉強の延長線上のものであるかのように思い違いしている人は、これで悔しさと遣る瀬なさで泣いた後に「血も涙もない」とはどういうことかを広く考え直してみるといい。
知的で民度の高い人々によるヒューマニスティックな社会が「血も涙もない」ものになることだって容易に起こることなのだ。








   

プロフィール

Author:demosthenesZ
第一にリバタリアン、ある意味リベラル、ある意味左寄り。
全体主義と衆愚政治がいちばん嫌いだから、です。
twitterでも@demosthenesZ

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