ものすごくゆっくりと、でも確実に
2014.07.15
知らない人のほうがいまや多数派なのだが、ファンタジー/サイエンス・ファンタジーの作家として「アーシュラ・K・ル=グウィン」と表記されるル・グィンは、とてつもなくヘヴィでシリアスなSF作家としても、多くはないものの傑作を残している。
ル・グィンのSFには「サイエンス」、殊にハード・サイエンスの部分は確かに少ないのだが、「スペキュラティヴ」の部分はどっさりずっしりある。
ル・グィンの小説家としてのメイン・ターゲット領域は、人間やホモ・サピエンスやその社会・文明やその力学・土台・未来にあり、冷徹なスペキュレーションと強力なロマンが両立していることによりアメリカを代表する小説家のひとりとしてジャンルの垣根を越えて支持されている。





そんなル・グィンが、クロポトキン、エマ・ゴールドマン、ポール・グッドマンらの著作・思想への思索と共感と常なる問題意識・批判精神をもろともにこめてスペキュラティヴ・フィクションのフォーマットで仕上げた傑作が『所有せざる人々』だ。
ここにはハード・サイエンスに関わるリアリティを要する記述・プロットなどは無きに等しく、また端から必要とされていない。
ここでのスペキュレーションの対象は、アナーキズムの可能性と予期される限界、人間の本性と個人と社会の在り方であり、そこからシヴィアかつヒューマンに外挿法的に構築されたひとつのあり得るアナーキズム社会の姿である。
ル・グィンはその社会:惑星アナレスの社会を理想的なアナーキズム社会として描いているわけではない。
そんなものは1945年以前の牧歌的な空想科学物語になら相応しかろう。
別宅『洗足池図書館の想いで』の「リバタリアンが踏んばるところ」で「オメラスから歩み去る人々」について触れる際にも語ったが、血も涙もある、民度の高い、善意の、理性ある人々の創る社会が必ずしも個人の自由と幸福を重んじる社会になるとは限らない。
善き人々による善き社会が個人の自由と幸福を踏みにじる危険で悲惨な独善的な専制的社会に流れることだって容易に起こり得ることなのだ。
「善き社会、善き政治」を標榜しがちなリベラル、コミュニタリアンは「個人の自由」の観点からこの『所有せざる人々』を読んでみる時、現時点でのアクチュアルな日常における自分の「善き政治」への志向が、事によるとパターナリスティックな反自由・非自由・自由抑圧に流れた専制政治・ファシズムをも生みかねないことに思い当たることだってあるだろう。


『所有せざる人々』は、小説らしいエンディングとして、見えづらく到達困難な真のアナーキズムに向けての希望と巻き直し再起への予感をこめて終わる。
そこには端的な「答え」は用意されていないが、読み終えたわれわれにはずっしりと重い「答えへの道筋」が見えている。
敢えて無理にでもそれを集約してみるなら「自由とは何の自由か」「自由とは誰かによって定義づけられていいものなのか」「自由主義の形を取った反自由主義=専制・強制があるのではないか」「したがってアナーキズムやリバタリアニズムもまた、不断の努力を要する永久革命である」あたりとなる。


こうしたSF小説、あるいは小説・文芸作品にあるのは、もちろんたいていは美しく大きな物語である。
だが、もしあなたが「そういう美しく大きい物語の中でなら、自分だって美しく雄々しく正義の闘いに乗り出すだろうに」みたいに思っているとしたら、それこそが政治をダメにする国民のメンタリティである。
あなたやあなたと同様のタダの市井のいち市民が、その度ごとに石原慎太郎氏や橋下徹氏や猪瀬直樹氏や世耕弘成氏や樋渡啓祐氏への投票を控えさえしていれば、ファシズムの芽は種段階で根腐れを起こして死に絶える。
あなたのような数万/数千万の国民が「なんとかかんとかだって!そりゃあいい!応援しようそうしよう、ウチの利益にも適うことだし!」とばかりにファシズムに水をやり栄養をやり育てているのである。
美しく大きく悲壮な闘いに5年後10年後に乗り出すくらいなら、目を見開いてさえいればいいだけの話なのだ。それは10年後のあなたの悲壮な闘いなんかよりずっと素早く簡単でリーズナブルで効力がある。









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第一にリバタリアン、ある意味リベラル、ある意味左寄り。
全体主義と衆愚政治がいちばん嫌いだから、です。
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