ものすごくゆっくりと、でも確実に
2014.12.03
前エントリで少しそっち方向へのハートに火がついたので、この機会に一歩さかのぼって用語に関しての1エントリ。


私はこのブログでよく「リバタリアン/リバタリアニズム」「リベラル/リベラリズム」「コミュニタリアン/コミュニタリアニズム」という文言を使っているし、そしてまた、まるでその3様を語っておけば「政治」を語るには十分だとでもいわんばかりに他の「〜イズム」については語らないでいる。
実は実際、その3様を語れば現代世界・現代日本の政治については十分に語れると考えていいのだ。
遅くともこの2010年代、そしてそれ以降、たとえば「右」「左」とかたとえば「社会民主主義」とか謂ってても始まらない — なんとなればそれらは、大枠でリバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムのどこかに、部分集合/全体集合式に分類できるものにとどまるからだ。


前回、リバタリアニズムとリベラリズムがたとえばどんな1軸において対立し得るかを具体例で単純化して示したみたのに味をしめて、今回は、コミュニタリアン/コミュニタリアニズムが大枠でどんな政治思想傾向なのか、言い換えれば、「なぜわざわざコミュニタリアンなんて耳慣れない、しちめんどくさい、新しげな言葉・区分けを使わなきゃならないか?」について語ってみよう。


連想としても感じられるように、「コミュニタリアニズム」はコミュニズム即ち共産主義/社会主義のいわば「替り」として、新規に「期待の新人」よろしく登場してきた感はある。
その印象・予測はあながち間違いでもない。
「共産主義」がもはや古臭い、「実験終了、これは効かん、決定!」な思想のように思える時、替りの用語・概念規定・範疇・領域が必要になった、みたいなことと考えていれば大体は事足りる。
どちらも、commune/community=共同体という語を基軸に作られた思想/コンセプトであり、「コミュニズム」に「変な、イヤな、限られた、独特の手垢と色」だけが付いてしまったがゆえに「コミュニタリアニズム」という新用語の下に再スタートが切られた、と観ておいていい。


で、やっとのことで今回のエントリ・タイトル「極右としても極左としても存在し得る」に行けるわけだが、多くの人が「えっ!今あんた、コミュニズム2.0みたいに思っとけ、って言ったじゃん?それなのに『極右』って!?」と反応するだろう。
外枠をまず求め、外枠から入り、結果、外枠だけを見て理解した気になってしまう悪しき誤りの形である。
コミュニタリアニズム:補って訳すとしたら「共同体(優先)主義」は、
人々がとある価値観や理想や「善」への志向の下に集って造ったその共同体の存続や繁栄を個人個人の自由や幸福より優先して考える
という思想傾向と言っていい。
だからこそ必然的に、「極右思想の持ち主たちによるコミュニタリアニズム」だって「原始共産制思想の持ち主たちによるコミュニタリアニズム」だって「儒教・仏教・神道思想に基づく旧き良きニッポン思想の持ち主たちによるコミュニタリアニズム」だって可能になるわけである。
この伝でいけば、安倍政権&石原慎太郎氏&橋下徹氏共同麾下の「美しきニッポンというコミュニティを目指すコミュニタリアニズム」だって易々と成り立つのだ。


判るだろうか?
本当に「判った」と自信を持って言えるだろうか?
極右であれ極左であれ、穏当で良識的で中庸な右派・左派であれ、儒教的/仏教的/キリスト教的/マルクス主義的美徳に基づく「徳治」的政治であれ、SF型末法未来マッド・マックス的砦社会であれ、コミュニタリアニズムであればコミュニタリアニズムゆえに個人個人の自由や幸福を二の次と考え軽視・排除し得る
ここにおいてこそ「〜的コミュニタリアニズム」は何であれ「自由主義」の獅子身中の虫であり得るのだ。
リバタリアニズムがリベラリズム/コミュニタリアニズムを、ある1軸においては同列のものとみなしつつも、「自由」ただ1点において対立せざるを得ないものとみなし得る所以である。



「押さえ」「入り」の参照程度に
共同体主義 - Wikipedia









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Author:demosthenesZ
第一にリバタリアン、ある意味リベラル、ある意味左寄り。
全体主義と衆愚政治がいちばん嫌いだから、です。
twitterでも@demosthenesZ

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