ものすごくゆっくりと、でも確実に
2016.08.27
唐突に、新しいカテゴリと副題の下にこのシリーズ・エントリを始めることにする。
「唐突に」と書きはしたが、実はそう唐突でもない。
ここのところの5、10、15エントリは、そのほとんどが多かれ少なかれ、「知」と自由主義の問題、「知」と自由と幸福の問題が、分かち難く結びついていることを、逆方向から — つまり悪や無明や不幸や不正や無効性の分析の方向から語ったものと言えるから。


「知と自由主義」「自由主義と知」みたいな文言を見ると途端に「ああ、ボクチン/アタチとはカンケーない、なんか高尚で高級な人たちの、なんか高尚で高級なおハナシだよね、ほなサイナラ」と背を向ける人々のことが思い浮かぶ。
私は、このシリーズでは特に、そういう人々、もしくはすべての人々の心に多かれ少なかれあるそういう部分にも、訴えていくべく労を取ろうと思う。
「知」が十分にあれば、そしてその知が十分に使われていさえすれば、自由主義も自由も幸福もカンタンに成就可能なものであるはずなのに、という想いがそのメインの理由としてある。


今回のこの思い立ちの直接のきっかけになったのは、最近ツイッターでも結構な話題になった "NHKニュース番組の貧困女子高生報道とそれに対するバッシング" の件だ。
いつものように、ネトウヨの女王こと片山さつき参議やそのお仲間が人権侵害にも繋がるバッシング行為を煽り、しかもそれを後に真逆に捻って正義の味方ヅラをするというナンセンス劇が繰り広げられているが、それはここでは措く。
ここで措いておけないのは、「何が貧困であるのか」「貧困であるとは、今日的な意味ではどういうことなのか」「貧困がどれだけ、どのように人の自由を阻害するか」という問題系が、相変わらず十年一日のごとく、それどころかここ40年も70年も変わることなく甘く、生温く、ぼんやりと、他人事のようにしか認識されていない現況だ。


貧困の問題、格差の問題、自由の問題、「何の平等か」の問題... といえば、世界的にも今日的でスタンダードな論立ての基礎としてアマルティア・センの「ケイパビリティ・アプローチ」がある。
潜在能力アプローチ - Wikipedia
アマルティア・セン - Wikipedia
ゆえあって私は個人的にこの「潜在能力アプローチ」という訳語を使いたくないが、まあそれはさて措き、一旦リンク先のウィキペディア・ページを読んでみていただきたい。


リンク先前者には理論化のための包括的で堅い言葉が並んでいることと思うが、この「アプローチ」には、量的・物理/物質的・実利/実務的な問題系とカンチガイされ単純化されがちな「貧困」「格差」「不幸」の問題系を、質的・倫理哲学的に捉え直すシヴィアさとそれゆえによりポジティヴな未来への展望がある。
そのシヴィアさも展望も、「片山さつきと仲間たち」には思い及びもつかないものだろう。
当該の "貧困女子高生報道" に戻って言うなら、事は、パソコンがある/ないの問題でも、中古のパソコンがいくらあれば買えるかの問題でも、2万円分の専門画材ペンセットが高いか安いかの問題ではないのである。


この女子高生、あるいはその世帯が貧困であるかないか、貧困であると主張してよいか悪いか、どこまで貧窮していればどこまで援助されるべきか、というのは量的・物質的・固定的・近視眼的アプローチの限界から来るマヌケで遅れた前時代的視点・言説である。
社会全体が持っている「分け前」を渋々恵んでやるという為政者側の視点・言説である。
この「為政者側」はこの女子高生を、「分け前を欲しがり続ける弱者」というありもしない固定した存在として捉えているがゆえに、「分け前を欲しがるだけで『社会』に返さない弱者」という固定した存在として捉えているがゆえに、こうした前時代的で「分け前計算実務」的なアプローチしかできないのだ。
たとえばケイパビリティ・アプローチなら、この女子高生がすべてを諦め非専門的低賃金労働と刹那的娯楽消費に一生の時間を費やす場合に彼女と社会が被るコスト/リスク/ロスと、この女子高生が自身の求める知的営為に拠って得る専門的労働とそれゆえの専門的消費と社会が彼女から受け取る知的生産物のもたらすゲイン/ベネフィットを秤に掛けて、後者のほうが彼女自身も社会もより多くの自由と幸福量を享受する、と妥当で持続可能性をも踏まえた判断を下すだろう。


貧困の問題やリソース分配の問題は、今日的にはとりわけ文化的自由の問題であり、人間の安全保障の問題である。
したがってそれは当然、自由主義の問題である。
リベラル型自由主義には「この自由が善き自由であり、その自由は善き自由ではありません!」型の反自由主義がいつでも潜み得るし、リバタリアン型自由主義には「ボクチンは自由なのれすぅ〜っ!不自由な人の不自由なんて知ったこっちゃありません!」型の反自由主義がいつでも潜み得る。
現代ではリベラル、リバタリアン、コミュニタリアンともに、センの掲げるような自由・自由主義へのシヴィアな視点・認識は不可欠なスタート基準であろう。



 

数多いセンの著作は、少なからずが研究者/学者/専門家向きの学術書であり、最初からそう簡単に「面白くスリリングに」読めるものではない。
講演/小論集でお手頃な新書2冊は入門編として持ってこいで、しかも内容十分。









にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ   
にほんブログ村

プロフィール

Author:demosthenesZ
第一にリバタリアン、ある意味リベラル、ある意味左寄り。
全体主義と衆愚政治がいちばん嫌いだから、です。
twitterでも@demosthenesZ

スポンサード リンク





ブログ内検索
基礎から学ぶなら