ものすごくゆっくりと、でも確実に

リバタリアンとリベラル — 「〜への自由」と「〜からの自由」に絡めて

2014.11.03
まずエントリ・タイトルに補足してひとこと。
通りのいいように単に「リベラル」としたが、部分集合的にもしくは包括的に、ここにはコミュニタリアンも含めているつもりだ — 要は、「『〜からの自由』のみならず『〜への自由』をできるだけ幅広く多くの人へ、そしてそれはできるだけ平等に!」とする自由主義と公共善に対する態度を持つ人々、ということである。


リバタリアン と リベラル/コミュニタリアン のそれぞれ想い描く「望ましい社会」の絵物語・理想像に大きなちがいがあるかないか、殊にこの2010年代近辺を念頭に置いて、と問うならば、実をいうとそんなにまではないのだ。
(「実をいうとそんなにまではない」なんて言い方を敢えてしていることを読み飛ばさないように!)
リバタリアンを自認する私がこのブログで過去述べてきているように(そして多くのリベラルを自認する人が私の「リベラリズム的思考」にそれほどまでに反駁・反感を持たないであろうように)、現代日本型の、なんなら2010年代日本型のリバタリアンなら、1945年以降リベラリズムが生んで来た「成果」を無下に低評価するわけがない。
警句じみた言い方をするなら、21世紀初頭に日本人でリバタリアンであれるのも戦後日本のリベラル的社会発展の賜物である、みたいな。
「では、なぜわざわざ『リバタリアニズム』なんて呼称や区分けが必要になるんだい?」というのは、リバタリアニズムがまだまだずいぶん誤解、というより未理解・無理解されている現在の日本ではもっともな疑問でもあって、このエントリではそれを、とあるトピックの下にできる限り具体的に語ってみようと思ったのだ。


そのトピックとは、またぞろちょっと騒がしくなってきた大阪市長:橋下徹氏による文楽協会への補助金削減問題。
リバタリアンである私は橋下徹氏に同意できるものをほとんどあるいはまったく持たないが、同時に、多くのリベラルが文楽協会への公金による助成をデフォルトで必ず「善きもの」と考えているとしたら、「うん、そいつぁちょっと簡単には聞き過ごせないねぇ?」とリバタリアニスティックな挑戦を仕掛けてみたくもなる。


文楽を好きか嫌いかといえば、私はけっこう「好き」のほうの部類に入る。
生涯に1度だけだが、大学生時代、国立劇場だかに不慣れな路線不慣れな駅から出掛けてまで『冥途の飛脚』を観に行ったことがある — 「現代日本人平均」からすればちょっとしたものだろう?
で、残念ながら私が期待してた「新口村の段」は演らなかったのだが、まあそれはいい。
ミソは、なぜ私が記憶推定3000円ほども払って不案内な街に出掛けてまで「新口村の段」を観たかったかだが、何てことはない — 高校の現代国語の教科書の後ろのほうに載っていた「新口村の段」が当時からものすごく好きだったからだ。
そこには近松門左衛門のモダンでプログレッシヴな才能を如実に示すキラーなセリフがある —
  大坂へ養子に行て、利発で器用で身を持って、身代も仕上げたあの様な子を勘当した孫右衛門はたはけ者、あほう者といはれても、その嬉しさはどう有ろう。今にも捜し出され、縄かかって引かるる時、よい時に勘当して、孫右衛門は出かした、仕合せじゃと誉められても、その悲しさはどう有ろう —
実利や生存一辺倒の社会や学校制度や国民経済がもっともっとえげつなく貧相な進み方をしていて「〜への自由」どころか「〜からの自由」でいっぱいいっぱい、なんて世の中で生まれ育っていたら、フツーの高校生が300年前の文人の作品にフツーに魅かれるなんてことなどあり得ないだろう。


でありながら、だ。
私は、文楽であれ能であれバレエであれオペラであれ、既に十分な文化的権威性を持ち、なんなら経済/社会/文化的なエスタブリッシュメント層からの各種のパトロネージュを受けるのが容易なアート・フォームを、最下位から最上位までの所得層の人間から(建前上は)一律に集められる税金を使って扶助するのは、とりわけ下位・中位の所得層の人間にとって、余計なお世話・やらずぼったくられ・絵に描いた餅なのではないか、と思うのだ。
もし自分の徴収された税金のうち「文化振興・奨励」みたいなものに遣われる分の投入先を選べるとしたら、私は漫画家志望者・ミュージシャン志望者・映画製作志望者等にこそそれを投入してもらいたいと思う。
漫画を除けば私を喜ばせ驚かせ熱狂させてくれる(ポップ・)アートは日本には少ないが、だからこそ私は次世代が驚くべきそれを提示してくれるなら税金くらいは喜んで払ったろかと思うのだ。


さて。
「私はリベラルであるので、知への自由の観点から文楽への公金からの補助金を容認/受忍する」とリベラルのあなたがリベラルゆえに言うとしたら、リバタリアンである私が「知への自由の観点から私は、文楽より伝わり易く多くの受け手が想定され多くの受け手/送り手を生み、よってもってより多彩・強力な『知』や幸福を生みだす各種の開かれた日常的・世俗的なアートにこそ妥当な扶助制度を具現化してほしい」と言う時、どう答えるだろうか?
また「公平に、なんてことが不可能に近い場合、何者にも扶助を与えないのがむしろ公平じゃないか?」と言う時に?
「何者を扶助し何者を扶助しないという選択は誰のどんな決定権に因るのか?」と言う時に?
「私は、文楽を扶助させられることから自由でありたいな」と言う時に?


ついでのついでながら付け足しておくと、佐賀県武雄市行政がやっていることは、ある意味・ある限定領域では、文楽への扶助に等しいものでもあるのだが — 知への自由や健康への自由や経済的自由でさえカツカツの人々を尻目に、タブレット学習やナイス・ミドルの気取ったレジャーに何の扶助が必要だというのだろうか?
リベラリズムはリベラリズムの名の下に、いつでもそういう収奪・暴力的強制・部分集団の排斥・「貧乏人イジメ」・平等の名の下の不平等行政を可能にしてしまうのだ。
私自身やリバタリアニズムが「完璧で全的な解答」を持っているわけではもちろんないのだが、イジワルな宿題を出す好敵手な教師に対するような気持ちで、この問いについて自問自答することはリベラリズムの練習問題にもなることだろう。


(エントリ・タイトルが気に入ったので今後何度か使うことになるかもしれない)








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第一にリバタリアン、ある意味リベラル、ある意味左寄り。
全体主義と衆愚政治がいちばん嫌いだから、です。
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